第三回『はてしない物語』

振り返ってみると児童書や十代の頃に読んだ本でものの見方が形成された感があり、印象深かった本について一冊ずつ感想を書いていく連載です。

めくるとそこにはいったいなにがあったのか、一緒に考えたり、おのおの思い出してもらえたら嬉しいです。

 

はてしない物語

 最近装画の仕事をするたびに、本の資材が高くなっている、という話になります。廃盤になってしまった紙も多く、本づくりも今までより紙や加工の選択肢がせまくなりました。びっくりするような凝った装丁に書店で巡り合うことも昔より少なくなった気がします。小さい頃に買った本や、古本屋で買った本の仕様と当時の価格を照らし合わせると、こんな値段でこんな本が!とうらやましく思います。そして中でもあれは本当にすごかったよな、とおりにふれて思い出すのが、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』です。


 『はてしない物語』は、1982年に岩波書店からハードカバー版が発行されました。グレーのケースから本体を取り出すと、えんじ色の布張りの地に、凹凸でタイトルが描いてあります。光の当たり方で陰影が変わる、ミステリアスなゴージャス感がありました。兄か私かがクリスマスプレゼントで親に買ってもらい、風邪を引いた日に学校を休んでベッドでお菓子を食べながら読み進めたのが今でも至福の思い出です。お菓子の油でベタベタになった手で本を持ちページをめくったら、美しい表紙にシミができてしまい心の底から落ち込みました。

 

 この本がすごいのは、読み手が手に取る実際の装丁が物語の重要なフックとなっている点です。主人公バスチアンが物語の中でめくる『はてしない物語』の装丁の描写が序盤に出てきますが、それは今まさに読者が手にしてる『はてしない物語』と同じ仕様で、そこには「自分が今読んでいる本が、本の中に出てきてる!」という、本の中に自分が入り込んでしまったような興奮があります。初めて読んだとき、「えっ、この本ってもしかして…!」と、自分が持ってる本をいったん閉じて表紙を眺め、また読み、バスチアンが読んでる本と同じだ!とわくわくした心地を覚えています。

 

 『はてしない物語』みたいなたたずまいの本を一回経験すると、本への信頼感が人生で長めに持続します。現在自分が装画の仕事をする中で、通常の装丁とか装画って、内容の雰囲気を翻訳したり拡張したりするための役割かなと感じていますが、『はてしない物語』では、もはやその装丁は、「装置」みたいに思えてきます。本の中に入っていくための、すてきな乗り物みたいな装置です。ナルニア国では異世界に行けるきっかけがクローゼットで、ハリーポッターでは駅のホームでしたが、『はてしない物語』ではそれらと同じ異世界への入り口として、この本自体が存在します。そんな機能的な装置ゆえ、豪華な仕様も納得ですが、やはりこのような生々しいワクワクを「本」の価格で味わえることが、素晴らしいなと思います。素晴らしいなと思いつつ、自分が子どもの頃よりも、『はてしない物語』は圧倒的に文庫が普及している気がします。もちろん書かれている物語に差異はないのですが、本の中への入り込みやすさはハードカバー版のほうが強く、文庫本とハードカバーとで読み手と物語との距離感がかなり変わるのもこの本の興味深さのひとつです。


 本を生みだすためのお金がこのままどんどん高くなったら、一般的な本は価格が上がりつつも体裁が簡素化し、特殊加工満載の装丁の本は、絶版か、高級な嗜好品のようになるのが流れかと思います。そうなると『はてしない物語』みたいな本は、子どものうちから手を出せるようなものではなくなり、買えるようになった頃には、そういうようなワクワクをもう必要としていない大人になっているかもしれません。子どものころに出会った本で今の自分の生き方が左右されたひとも数多くいると思います。私もそのひとりです。これから先の子どもたちが、得るべきときに想像力を得られる世界をできるだけ失わせたくないなと願いつつ、そういうことの重要性を、生活の中でサブリミナル的に唱えながら生きていきたいと思います。
 

 

『はてしない物語』

10歳のバスチアンは本を読んでいた――ファンタージエン国は、正体不明の〈虚無〉におかされ滅亡寸前。その国を救うには、人間界から子どもを連れてくるほかない……。映画化された大長編ファンタジー。

 

著者紹介

三好 愛 ai miyoshi
装画や挿絵を中心に活動するイラストレーターです。著書に、エッセイ集『ざらざらをさわる』(晶文社)と『怪談未満』(柏書房)と絵本『ゆめがきました』(ミシマ社)があります。
 

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